わが家の雑煮である(写真をクリックすると拡大できます)。銀杏切りの大根と人参、千切りの牛蒡、鶏肉が入っていて、一番出汁を使い醤油で味付けする。焼いた切り餅を椀に入れてこれを注ぎ、最後に刻んだ三つ葉を散らす……写真のはちょっと三つ葉入れすぎか。この作りかたは妻の実家のものである。函館の僕の実家もこれとほとんど同じだけれどもちょっと違う。僕の実家ではワラビを加えるのである。ワラビの季節はもっと先だと思うけど、なぜかワラビが入る。ワラビ特有のうまみが出るのでそれもまたうまい。
いまは国分寺で暮らしているけれども、このあたりではどんな雑煮を食べてきたんだろうと思って、先日市立図書館に行ったついでにとりあえずちょっと調べてみた。
僕が住んでいるのは国分寺駅の北側だ。そこは国分寺崖線の上、つまり武蔵野段丘だということになる。しかし調べてみたら、国分寺崖線の上というのは江戸時代の中頃の享保年間(吉宗=米将軍の時代だな)まで誰も住んでいないただの荒れ野だったらしい。人がいないということは雑煮もない。人が住んでいなかったのは水に恵まれない土地だったからだそうである。
いまの国分寺駅の周辺で古くから集落があったのは水に恵まれていた国分寺崖線の下の地域と恋ヶ窪なんだそうだ。国分寺村はいまの東元町と西元町のあたりで、真姿の池湧水群の周辺から野川沿いに西に広がっていたようである。恋ヶ窪村というのは姿見の池のあたりの集落だった。恋ヶ窪は東山道や鎌倉街道の宿場町だったというからこれも古いんだろう。
その国分寺村のお雑煮については下記のような記述があった。
「雑煮は、カツオブシのだしで醤油味である。里芋、大根、小松菜などを入れたが、鶏肉を入れるようになったのは、昭和三〇年代になってからである(国分寺市民俗調査団・編『国分寺市の民俗2 ― 国分寺村の民俗』国分寺市教育委員会文化財課、1992、p.150)」。
話が脱線するけれども、鶏肉を入れるようになったのはやっぱり最近なんだ。僕の実家も妻の実家もそうで、昔から鶏肉を入れいていたわけではないらしい。雑煮の鶏肉というのは戦後のいわゆる生活改善とか経済成長が関係しているみたいだ。
国分寺崖線の上の地域に話を戻すと、国分寺崖線の上に人が住みだしたのは享保年間に行われた新田開発以降だったそうである。国分寺では1724(享保9)年、国分寺村の名主である本多三衛門家の兄弟儀衛門と仲衛門が肝煎りとなって本多新田というのが開発された。そのときから連雀通り沿いに人家が立ち並ぶようになったという。ということは国分寺崖線の上の地域における雑煮の歴史もこのときに始まったわけだ。
本多新田の雑煮については、平成15年度本多公民館主催事業「地域を語るサロン『郷土の食探検』」の報告書(国分寺市立本多公民館、平成16年)という小冊子に農家の方々のお話が載っていた。
本多寅太郎さんという方の家のお雑煮は、「野菜(家の前庭でとれた「ゼンザイもの(前庭の栽培もの)」)のすまし汁に焼き餅をひたして食べる」もので、野菜は「ダイコン、ニンジン・コマツナ・ネギ」が入っていたという。栗原正代さんという方は、「スマシ汁に焼いた餅、サトイモ・ダイコン・コマツナくらいでしたね。いまはトリもいれます」と言っている。本多さんによれば「雑煮は、本多新田の中でも家によって違う」らしい。「汁は味噌仕立ての家もある」という。栗原さんも「家々でちがったみたいですね」と言っている。
家々で違う理由は、本多新田に移ってきた人々の出身地がさまざまだったからだ。本多さんは、「出身地が桧原、五日市、青梅、狭山、所沢、飯能など様々なところから来ているせいだろう」としている。開発と同時によその土地からいろいろな雑煮が集まってきたというのはおもしろい。ただし本多さんによれば、「本村(ほんむら―今の東元町・西元町)の出身は少ないし、嫁入りや養子には米がとれる多摩川付近からは北部の新田地帯には来な」かったという。
ところで本多さんが言っている「すまし汁に焼き餅をひたして食べる」食べ方だが、これは餅のせいだという。水に恵まれない土地だったので本多新田には水田がなかったという。そのため自家米は陸稲だった。水稲の白米は買ってこなければならないもので、ふだんは食べられない。本多さんは「『陸稲(オカボ)』の糯米なので粘りがなくすぐ溶けるのでそういう食べ方になる」のだと言う。陸稲で餅らしい粘りを出すのは難しいらしい。「餅をつくにも一人搗きではねばりが出ない。3人で搗く「カケヅキ」というつき方で搗」いたという。それでも溶けてしまうから「ひたして食べる」。
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