CEPTEDは、"Crime Prevention Through Environmental Design"の略で、「環境デザインによる防犯」を意味する概念もしくはその手法だ。手法としてのCEPTEDは…、例えば、ひとに入ってきてほしくない敷地があったとして、防犯目的でその境界に柵を立てる、これも立派なCEPTEDらしい。柵は高さは問題でない。またいで越えられる高さしかなくてもCEPTED。ポイントは、誰かのテリトリーであることを理解させる装置として働くかどうかだそうだ。だから、芝生を敷き詰めたりするのというのもプラスになるらしい。そのほかには、駐車場に生垣を作らない、どこかから監視されているような気がするようにする、夜のあいだの照明はなるべく明るくするなどの工夫もCEPTEDということになる。
物理的環境のアスペクトを操作することによって人間の意識や行動をコントロールするデザインは、犯罪抑止を目的としたものばかりではない。
ジョージ・リッツァ氏 George Ritzer によれば、「あるファーストフード・レストランは、約二〇分たつと、客が不快になるような椅子さえ開発している」(『マクドナルド化する社会』、正岡寛司・監訳、早稲田大学出版部、1999)。ジョナサン・スターン氏 Jonathan Sterne は、ベンチに取り付けられているバーを同様のデザインとして指摘している(Jonathan Stern, "Urban Media and the Politics of Sound Space," Open 9: Sound in Art and Culture, 3/15/2006, Distributed Art Pub Inc.)。
こういうベンチは、日本でも最近は駅とか公園とか、けっこういろんなところで見られる。身を横たえることができないようにバーが渡されていたり、ひじ掛が取り付けられているやつ。見るとやっぱりどこか息苦しいかんじがするけれども、仕方ないのかなとも思ったりして、複雑な気持ちになるベンチ…。
建築評論家の五十嵐太郎氏は、著書『過防備都市』(中央公論新社、2004)で、こういうベンチについて次のように書いている。
「法律で他者の存在を禁止するのではなく、環境のアフォーダンスを利用し、やんわりと追い出そうとしているわけだ」。
それらのベンチというのは、法にもよらず、モラルを説くことにもよらず、その他の啓蒙的、教育的な手段にもよらず、いわば人間の動物的限界を利用して空間を構成しようというデザインだと言うこともできる。人はそこで身を横たえることをあきらめることしかできない。このデザインがあれば、いちいち「このベンチで寝ることを禁ず」といった張り紙してまわる必要もなくなる。
バリー・マニロウの歌を流して騒々しい"carhoons"を通りに寄せ付けないとうにしようというプランは、これとどこか似ている。
・"Trouble with gangs? Put on Manilow"(Telegraph, 2006/06/06)
・"Manilow to drive out 'hooligans'"(BBC NEWS, 2006/06/05)
音楽の好き嫌いを利用するのだから、バー付きベンチのように人間の動物的限界を利用して空間を構成するというのとは違うだろう。でも、法律に基づいて対話するのでもなく、倫理を説くのでもなく、その他の啓蒙的・教育的な手段によって更正を促すのでもない対応であるところは似ている、と思う。
バー付きベンチのようなデザインについて、五十嵐は、次のようにも書いている。「しかし、建築に関わるものにとって、こうしたかたちでデザインが使われていることは、なんともやるせない。ある意味では、空間の力を利用しているのだが、人を幸せにするためではなく、他者の排除というマイナスの想像力に奉仕している」。
他者についてどう考えるか。
他者の主体性をどう認め、どう信頼を寄せることができるかは、どのような共同体をどのように成すのかという問題と密接に結びついている。未来を選択するような、大事な選択のように思う。
【音響空間のポリティクスの最新記事】


